隨筆·草創期的《人民中國》④ | 正式創刊

隨筆·草創期的《人民中國》④ | 正式創刊

パイロット版を2度出した後、創刊號の仕事にとりかかった。
出版了兩期試刊之後,我們開始著手準備創刊號。

日本での販売に間に合わせるため、創刊號は2カ月前から編集と翻訳の作業を始めなければならなかった。そして、1カ月前まで、印刷と製本を終わらせて、船便で日本へ運ばなければ、間に合わない。日本人の読書習慣を考えれば、雑誌は前月のうちに販売されるのが望ましいにもかかわらず、その當時、どうしてもそれができず、もし、前月に屆くようにするとなると、もっと早くからの編集が要求されるので、雑誌の內容が勢い古くなって、新味がなくなる。航空便に切り替えると、運賃があまりにも高すぎ、コスト高となってしまう。
為了趕上在日本發售的日子,創刊號必須提前兩個月開始編輯和翻譯,然後,提前一個月,完成印刷和裝訂,海運到日本,否則來不及。考慮到日本人的閱讀習慣,雜誌最好能在前一個月發售,但當時無論如何都做不到這一點。如果在前一個月發售,那就必須更早開始編輯工作,雜誌的內容必然過時,缺乏新意。若是改用空運,那運輸成本又太高了。

だが今はどうだろう、製版・印刷技術の目覚ましい発展で、中日両國同時進行で作業が行われ、雑誌は間違いなく前月末か月初めに読者の手元に屆くようになり、昔を知る私なぞには、まったく夢のような話である。
今時不同往日,隨著製版和印刷技術飛躍發展,中日兩國已經可以同步展開作業,雜誌可以準確無誤地在前一個月月底或當月初送達讀者手中。這簡直是做夢也不敢想象的。

『人民中國』日本語版の創刊日は1953年6月5日だが、「創刊號」は早くも5月中旬に出版された。表紙には、メーデーの慶祝パレードの際に撮った天安門樓上の寫真が使われ、毛沢東主席がほほ笑みながら少年先鋒隊員から花束を受け取る姿があった。毛沢東の両側に、朱徳、劉少奇、周恩來、彭真らが立っていた。「人民中國」の4文字は、パイロット版よりかなり改良され、赤地に白く印刷され、明るくて人目を引いた。
日文版《人民中國》的創刊日是1953年6月5日,但創刊號早在5月中旬就已出版。封面是一張在五一慶典遊行時拍攝的天安門城樓上的照片,毛主席微笑著從一名少年先鋒隊員手中接過一束鮮花。站在毛主席兩側的是朱德、劉少奇、周恩來、彭真等。與試刊相比,“人民中國”四個字進行了大幅改良,紅底白字,鮮豔醒目。

刊號の巻頭を飾ったのは、郭沫若氏の「発刊のことば」である。送られてきた原稿は、生まれて初めて見る郭氏の毛筆による真筆であった。しかし、掲載されたのは原稿ではなく、日本語訳のみで、署名の「郭沫若」の3文字だけが郭氏の自筆だった。
創刊號的開篇是郭沫若先生撰寫的發刊詞。寄來的是郭沫若先生用毛筆寫的手稿,那是我平生第一次見到他的親筆。不過,創刊號上只刊登了日文譯文,唯有落款“郭沫若”三個字是真跡。

少し長くなるが、抜粋してみたい。
發刊詞原文稍長,在此摘錄部分同各位分享。

「『人民中國』の日本語版は、日本語の文章の読める読者、主として日本の人民に、今日の中國の國家建設事業——政治・経済・文化・教育・社會活動など各分野にわたる事業の実際の姿をつたえ、これによって、読者が正確に迅速に不斷に、また事業の発展に即して、比較的に全面的な理解を得られるようにすることを趣旨としている。これは中日両國人民の友誼を促進するためにも、また極東の平和を擁護するためにも重要なことである」
“《人民中國》的日文版,其宗旨是向能看懂日文文章的讀者,主要是日本人民,傳達當今中國國家建設事業——政治、經濟、文化、教育、社會活動等涉及各個領域的事業的實際面貌,從而使讀者準確、迅速地,並隨著事業的發展不斷地對中國有比較全面的理解。這對促進中日兩國人民友誼和維護遠東和平都是重要的。

「各國人民間の友好合作こそ、國際間の恆久平和を擁護するための確固たる基礎であるということを、われわれはよく知っている。だが、各國人民間の友好合作を実現するためには、まず相互の理解を促進することに全力をそそがなければならない。相互に理解しあってこそ、はじめて互いに尊重し合い、學びあい、助けあうことができ、真の友好合作の段階に到達することができるのである」
“我們都知道,各國人民的友好合作才是維護國際間持久和平的堅實基礎,但各國人民要想實現友好合作,首先要全力促進相互理解,只有相互理解,才能相互尊重。互相學習,互相幫助,才能到達真正的友好合作階段。”

「中日両國人民は、歴史上の久しい交わりと地理上の隣接から、密接な関係におかれている。日本では、漢字をやはり日本文字を構成する一つの要素として使っている。また日本人民の生活様式と生活感情には伝統的に中國人民のそれと似かよったものがある。こうした事情のもとでは両國人民の相互理解は比較的容易に行われるはずである」
“中日兩國人民由於歷史上的久交和地理上的毗鄰,關係密切。在日本,漢字還是作為構成日本文字的一個要素使用的。另外,日本人民的生活方式和生活感情傳統上與中國人民相似。相互理解應該比較容易進行。”

「人と人との間柄がいたって親密な場合、これを『知己』という言葉であらわしている。この言葉は、日本でもつかわれている。國と國との関係においても、われわれは『知己』といえるほどの関係を結びたいものである。われわれは、日本の人民が日本の支配層とはおのずからことなっているということをよく知っている。日本の人民は、中國の実際の姿を知りたがっており、また貿易の上でも文化の上でも、われわれと深い交わりをむすぶことをのぞんでいる。こうした要素は、実際のところ本誌の刊行にとっても力強い激勵となっているのである」
“人與人之間往往用‘知己’表示親密的關係。這個詞在日本也常用。在國家和國家的關係中,我也希望能建立‘知己’的關係。我們深知日本人民與日本統治階層是完全不同的。日本人民渴望瞭解中國的實際面貌,也希望在貿易和文化上與我們結下深厚的友誼。這實際上對本雜誌的發行也是強有力的激勵。”

「われわれは侵略戦爭の政策に反対している。したがってわれわれは、ニュースを報道する場合、報道の真実性を保護して戦爭挑発者の封鎖と隠蔽(いんぺい)と歪曲(わいきょく)をうち破らなければならない」
 “我們反對侵略戰爭。因此,在報道新聞時,我們必須維護報道的真實性,突破戰爭發動者的封鎖、掩蓋和歪曲。”

郭沫若氏はその後もずっと『人民中國』の成長を見守ってくださり、いかにして読者に愛される読みやすい雑誌にするかについて度々提案をされたことがある。
後來,郭沫若先生也一直關注著《人民中國》的成長,經常就如何將之做成一本通俗易懂、深受讀者喜愛的雜誌提出建議。

あるとき、編集部の責任者と一緒に、郭先生のお宅を訪れたことがあるが、読者を増やすためには、日本人の好みに合った文化的なものをもっと多く紹介することが必要ではないかと力説された。例えば硯(すずり)、中國には歴代の有名人が使った硯をコレクションしている方がおり、その方を取材して記事にまとめれば、日本の読者はきっと喜ぶに違いないと話され、また、科學や考古學など學術界の動きを伝える記事も喜ばれようが、硬い學術論文は困るが、かみ砕いて分かりやすく解説したものなら良いのではないかと、話された。そして、雑誌には毎號、柱になる記事が2、3本必要だが、ほかにもいろいろな読み物があって初めて成り立つのであって、「美しく咲いた牡丹の花にも緑の葉」という中國のことわざのようなものですと言って、次のような詩的な言葉で結ばれた。「それはまるで夜空のように、ただポツンと丸いお月さまだけでは寂しく、やはり月の周りに雲とか星をちりばめて初めて、お月さまが際立つのではないでしょうか?」
有一次,我和編輯部負責人一起拜訪郭沫若先生家時,他力勸我們多做一些符合日本人興趣的文化類報道,以擴大讀者群體。他以硯臺做例子,說國內有位收藏曆代名人使用過的硯臺的收藏家,若能對他進行採訪報道,想必一定會引發日本讀者興趣。此外,科學、考古學等學術界動態的報道應該也很令人欣喜,雖然學術論文晦澀難懂,但若用通俗易懂的方式進行解釋,將會很好。此外,每期應當有兩到三篇主要文章,不過也應當有許多其他類型的讀物,正如中國那句俗話“牡丹雖好,還得綠葉扶”一樣。最後,郭老用詩一般的語言說:“這就像夜晚的天空一樣,不能光有一輪月亮,圓嘟嘟的,月亮旁邊還要有幾朵雲彩,而在遠處還可以配上幾顆星星,這樣才能把月亮烘托出來。”

さて、話は戻るが、印刷工場から屆いたばかりの「創刊號」にはインクの匂いが漂っていた。創刊號を手にしながら、感動を抑えきれなかった。この雑誌が間もなくお隣の日本へ運ばれるのかと思うと、心が穏やかでいられないような気がした。
言歸正傳,創刊號從印廠寄到時,紙頁間還飄著墨香。我捧在手中,感慨萬千。一想到雜誌很快就要運往鄰國日本,未免心潮起伏。

しかし、「好事魔多し」で、みんなの興が高まったところに、日本人スタッフの一人が誤植に気付いた。メーデー祝典に參加した日本代表の名前が間違えられ、「児島」が「児玉」になっていたのだ。このミスは、本文ではなく、グラフ寫真のキャプションにあった。ほんの一字の誤植だが、創刊號であり、しかも日本代表の名前の間違いなので、ミスのまま日本に発送するわけにはいかない。
然而,好事多磨。就在大家都興高采烈之時,一名日籍員工發現了一處誤排。參加五一慶典的日本代表名字被寫錯,“兒島”變成了“兒玉”。儘管只是一字之差,但這是創刊號,而且弄錯的是日本代表的名字,因此無論如何也不能就這樣寄到日本。

訂正の方法には二つある。一つは、そのページを取り外して刷り直し、差し替えること。もう一つは、次號に訂正を出すことであるが、再印刷には時間がない。編集者にとって創刊早々、訂正を載せるのは面目(めんぼく)が立たない。結局、総動員で、ひげそりの刀で間違えた字をこすり落とし、爪でアトをきれいにして、その上に活字を下ろした。一冊一冊直し、2000冊が終わったのは、東の空がすでに白々としてきた頃だった。
修改方法有兩種。一是取下這一頁,重新印刷單頁後替換。另一個在下期發佈勘誤聲明。但是,重新印刷已經來不及。而對於編輯來說,剛創刊沒多久,就發佈勘誤聲明,又未免臉上掛不住。最後,我們全員上陣,用刮鬍刀將印錯的字刮掉,用指甲將刮痕修復平整,最後重新蓋上鉛字。就這麼一冊一冊地改,等2000冊全都改完的時候,東邊的天空已經亮了起來。

當時、日本人にとって中國は、近くて遠い國で、日本語版『人民中國』は、中國の事情を知る重要なルートの一つになった。雑誌は歓迎され、翌月の7月號は発行部數が9000部を超え、その後一番多いときは10萬部に上ったこともある。
對於當時的日本人來說,中國是一個既近又遠的國家,日文版《人民中國》成為了解中國的重要渠道之一。雜誌很受歡迎,次月的7月刊發行數量超過9000冊,後來,最多的時候發行量超10萬冊。

劉德有

1931年出生於大連,日本文化專家,記者、翻譯家。

1952年任《人民中國》翻譯,編輯。

1955年到1964年,曾為毛澤東、周恩來、劉少奇等人做翻譯。

1964年到1978年作為《光明日報》和新華社記者在日本工作15年。

1986年到1996年任中華人民共和國文化部副部長。

著作:《時光之旅》(時は流れて)《戰後日語新探》(戦後日本語新探)

譯著:《祈禱》(祈禱,有吉佐和子)、《山芋粥》(芋粥,芥川龍之介)、《突然變成的啞巴》(不意の唖,大江健三郎)、《殘象》(殘像,野間宏)等。

責任編輯:李家祺


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