隨筆·草創期的《人民中國》⑤ | 我無悔於人生——菅沼不二男(上)

隨筆·草創期的《人民中國》⑤ | 我無悔於人生——菅沼不二男(上)

創刊當時、外文出版社のビルは、城壁がまだ殘っていた北京宣武門近くにある新華通信社の広い敷地內にあった。
創刊時,外文出版社大樓位於北京宣武門附近的新華社大院內,那時,宣武門還殘存著城牆斷壁。

初めて出版社のビルに入り、案內されたのは60平方㍍餘りある大部屋で、日當たりの良い南側の窓際にずんぐりした體つきの老眼鏡をかけた40過ぎくらいの男性が座っていた。その男性は長旅の汽車から降りたばかりの私たちの姿を見ると、急いで立ち上がり、固い握手を交わし、「大連からようこそ。僕も先月瀋陽から赴任してきたばかりです」と言って歓迎してくれた。
第一次到出版社大樓時,我被帶到一個60多平米的大房間裡,當時,陽光充足的南窗旁坐著一位約摸40多歲,身材魁梧,戴老花鏡的男人。那人看到剛下長途火車的我們幾人,連忙站起身來緊緊握住我們的手,熱情地說:“歡迎你們從大連來。我上個月剛從瀋陽調來。”


沼不二男

この中年の男こそ、後に『人民中國』でずっとお世話になったリライト専門家・菅沼不二男氏だった。氏はもともとベテラン記者で、國際問題に通じていて、報道に対する敏感さを持ち、報道業務に手慣れていた。
這位中年男子就是《人民中國》的改稿專家菅沼不二男先生。他原是一名資深記者,深諳國際問題,具有很強的新聞敏感性,也非常熟悉報道業務。

後から聞いた話では、氏は東京帝國大學法學部卒で、大學に入ったのは1929年、世界が大恐慌に陥った時だ。卒業後、同盟通信社の政治部で仕事をし、37年7月、日本當局者の手で「新京」に改名された中國東北地方の長春に派遣され、39年、ノモンハン事件勃発後に、上海に設けられた同盟通信の華中総局に赴任。局長は、氏を編集局の「情報部長」に任命するつもりでいたが、斷った。「情報部長」の仕事は主に、大量の外電を読んで選び抜き、それを総局長の參考に供することであった。その頃、日本は外電を秘密電報として処理していたので、魅力的な仕事だったが、菅沼氏には氏の考えがあった——この戦爭は本來してはならない戦爭だ。日本はすでに泥沼に陥っており、いつかは米英を敵とするだろう。そうなれば形勢はますます日本にとって不利になる。敗戦は時間の問題だと思っていただけに、「せめて戦爭中、責任ある地位にだけは就くまい」と決意し一介のヒラの記者で通した。
後來,我聽說菅沼不二男畢業於東京帝國大學法學部,1929年進入大學時,正是世界陷入經濟大危機時期。畢業後,他進入同盟通訊社政治部工作,1937年7月,日本當局將他派往“新京”(即長春)。1939年諾門罕戰役爆發後,菅沼不二男調到設在上海的同盟通信社華中總局任職。局長原想任命他為“情報部長”,卻被他拒絕了。“情報部長”的主要工作是閱讀並選編大量外電,提供給總局局長參考。當時,日本將外電當作秘電處理,因此這是一份頗有吸引力的工作。而菅沼不二男有自己的考量:這場戰爭本就不該打。日本已經深陷泥潭,終將會以美英為敵。那樣的話,形勢將對日本愈加不利。他認為,日本戰敗只是時間問題,並下定決心:“在戰爭期間絕不擔任任何有責任的職務”,堅持做一名普通記者。

「情報部長」を斷ったために、44年の春、突然召集令狀を受け取り、一等兵として「東部國境地帯」の虎林の部隊に編入され、牡丹江へ配置されることになった。しかし、菅沼氏は英語に通じ、外電を読み解き分析する特技があったので、関東軍司令部第二課に配屬され、45年8月の日本降伏まで勤務した。
由於拒絕擔任“情報部長”。1944年春,他突然接到徵兵通知,以一等兵身份被編入“東北邊境”的虎林部隊,分配至牡丹江。但由於菅沼不二男既懂英語,又具有閱讀解析外電的能力,便被調到到關東軍司令部第二課,一直在那裡工作到1945年8月日本投降。

終戦後、菅沼氏は元の職場である同盟通信の支社に戻ったが、ソ連軍に接収され、日本軍の軍服を脫ぎ捨てて平服に著替えた。このとき、「なんともいえぬ解放感」とともに、灼熱(しゃくねつ)の太陽が「まぶしく、並木の緑が目に沁(し)みるようだった」と述懐している。
戰爭結束後,菅沼不二男回到原單位同盟通信社分社,但很快就被蘇軍接收,他脫下了日軍軍服,換上了便服。他回憶道,自己當時感到一種“難以言喻的解放感”,灼熱的太陽“十分耀眼,綠色的行街道樹深深映入眼簾”。

當時、長春は異常な混亂に陥っていた。街は日本人「難民」でいっぱいだった。菅沼氏は素早く「日本人民會」のメンバーとして「難民」救済に従事し、一方でソ連軍の黙認の下、共同通信のニュースを受信し、それを編集して日本人たちが読めるようにした。46年4月、當時習慣的に「八路軍」と呼ばれていた東北民主聯軍が長春に入ってから、菅沼氏たちは事前の準備に基づいて「日本人民主連盟」を設立し、日本語の新聞『民主新聞』を発行、祖國の情報に飢えていた日本人居留民たちに大歓迎された。
當時,長春異常混亂,街上到處都是日本“難民”。菅沼不二男很快加入“日本人民會”,從事救濟“難民”的工作,同時也在蘇軍默許下,接收共同社的新聞,加以編輯後供日本人閱讀。1946年4月,東北民主聯軍(俗稱“八路軍”)進入長春後,菅沼不二男等人在原先準備的基礎上成立了“日本民主同盟”,開始發行日文報刊《民主新聞》,受到渴望瞭解祖國信息的日僑們的熱烈歡迎。

ところが、わずか1カ月後、東北民主聯軍は突然長春から撤退。とどまるべきか、それとも八路軍に付いて撤退すべきか、岐路に立たされたが、內心の葛藤の末、北へ向かうことを決め、真夜中に駅に駆け付け、弾薬を満載した貨車の屋根によじ登った。途中で國民黨軍の追撃と空襲をくぐり抜けながら、松花江のほとりの佳(チャ)木(ム)斯(ス)に著いた。なぜ八路軍に付いて北へ向かったのか?
然而,僅僅一個月後,東北民主聯軍突然決定撤離長春。菅沼不二男陷入了兩難:是留在這裡,還是跟著八路軍撤離?經過激烈的思想鬥爭後,他最終決定北上,半夜趕到車站,爬上了一輛滿載彈藥的貨車車頂。途中躲過國民黨軍隊的追擊和空襲,最終到達松花江畔的佳木斯。

為什麼要跟著八路軍北上?

1938年出版的毛澤東著《論持久戰》

理由は二つあった。一つは39年に上海で手に入れて読んだ毛沢東の『持久戦を論ず』から影響を受けていたことが大きかった、と菅沼氏。「この本は、當時上海にあった『中國通信社』が日本語に翻訳してタイプ印刷にし、一般に販売されていたものであった。1938年5月26日から6月3日にかけて、毛沢東が延安の抗日戦爭研究會でおこなった講演を本にしたもので、私はその翌年にすでに日本語訳を読むことができたのだった。流石(さすが)は上海である。私は目をふさいでいるウロコが落ちたような気がした」「そのころ日本では、中國と全面戦爭をはじめてはみたものの、いつの間にか『泥沼に足をつっこんだようだ』と言われだしていたし、國際情勢についても、獨ソ不可侵條約がむすばれると、『複雑怪奇』という一言をのこして內閣を投げ出した首相がいたほどだった。ところがこの本には、『中國必亡論』も誤っているし、『中國速勝論』も間違っている、この戦爭は持久戦であると斷定し、戦局の推移を、日本軍が大挙侵攻してくる段階、日本軍の侵攻に限度があることからくる対峙(たいじ)の段階、中國側の戦略的反攻の段階と三つに分け、それぞれの段階における戦法から政治上の諸問題、國際情勢の推移まで詳細に分析しており、その後の情勢の発展は完全にこの本の書いてある通りにすすんだ。當時中共軍は日本軍とはわずか10カ月戦ったにすぎない。あの延安の山奧にいて、どうしてこんなに正確に物事を見通せるのだろうか? 記者として、これに驚かずして一體何に驚くべきか? 今後も日本國民は、こういう正しい見通しのできる指導者を持つ中國の民眾とお隣り同士で暮らしてゆかなければならないのだ。よし、この機會に中國共産黨の指導する地區に入って、どうしたらこんなに正確に見通しができるのか、奧地の民眾は自分たちの政府をいったいどう考えているのか?この一點を極めてみよう!」
菅沼不二男回憶,決定性的原因有二。一是受到1939年在上海時閱讀的毛澤東《論持久戰》的影響。“當時,在上海的‘中國通信社’將《論持久戰》翻譯成日文並打字印刷,向大眾發售。這是基於1938年5月26日至6月3日毛澤東在延安的抗日戰爭研究會上的演講編成的書,次年,我就讀到了日譯本。真不愧是上海啊!讀完後,我茅塞頓開。”“當時,日本已經發動對華全面戰爭,卻出現了認為日本不知不覺間‘已經陷入泥潭’的看法和議論。國際局勢亦不樂觀,德蘇締結互不侵犯條約後,時任首相留下一句‘歐洲形勢複雜奇怪’便宣佈辭職(指日本第35任首相平沼騏一郎——譯註)。而《論持久戰》認為,‘中國亡國論’與‘中國速勝論’都是錯誤的,這場戰爭將是一場持久戰。書中將之分為三個階段:日軍大舉進攻階段,日軍進攻達到一定限度後進入戰略相持階段,中國戰略反攻階段,並從各階段的作戰策略、政治上的諸多問題和國際局勢的演變等方面進行了詳細分析。而此後局勢的發展,證明了該書的正確性。成書時,中共軍隊與日軍不過僅僅作戰10月餘,在那延安的深山中,毛澤東如何得以做出如此準確的預測?作為一名記者,沒有什麼比這更讓我驚訝了。日中鄰邦,日本國民必將同擁有如此高瞻遠矚之能力的領導人的中國人民共處下去。因此,我很想借著這個機會,進入中國共產黨領導的地區一探究竟,去弄清如何才能做到如此準確的預測,那裡的民眾又是如何看待自己的政府的。”

もう一つの理由は、八路軍の規律の厳正さをその目で見たことだった。
另一個原因是他親眼見到了八路軍的嚴明紀律。

その頃、長春には「妙心寺」という寺があり、日本人の住職がいた。民主聯軍が入城した後、兵士の一団が「庭」を借りて一夜を過ごすと聞いて、和尚は「共産軍」が來たぞと思い、急いで「どうぞ室內のオンドルで休んでください」と勧めたが、どうしても入ろうとせず、寺の庭で眠った。4月下旬の長春といえば、夜間はかなり冷え込む。和尚はなおも「オンドルで」と勧めたが、兵士たちは土間にごろ寢し続けた。そればかりか、兵士たちは毎日寺のために天秤棒で水を運び、庭を掃除した。寺を離れるときには、周りをきれいに片付け、和尚に心からの謝意を述べた。年老いた和尚は感動して「ああ、これこそ天晴(あっぱ)れもののふじゃ!」と言った。
當時,長春有一座名為“妙心寺”的寺廟,裡面有一位日本住持。他聽到民主聯軍進城後,士兵需要一個“院子”過夜,心想“共軍”來了,慌忙請他們到室內暖炕上休息,士兵們卻無論如何也不答應,執意在院子裡睡下。4月下旬的長春,夜裡仍然相當寒冷。儘管住持反覆邀請,士兵們也堅持睡在地上。不僅如此,士兵們還每天扛著扁擔為寺廟挑水、打掃院子。離開寺廟前,士兵們還將周圍收拾得乾乾淨淨,並向和尚深深致謝。老和尚大為感動,深感敬佩。

この二つの理由で、菅沼氏は決意をし、リュックサックに本を詰め込み、著の身著のままで、真夜中に奧地行きの汽車に飛び乗ったのだった。(次號に続く)
基於上述兩個原因,菅沼不二男下定決心,將書本塞進背囊,沒有帶任何換洗衣物,半夜跳上了北上的火車。(下期續)

圖片提供:劉德有
翻譯:李家祺


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